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同窓会にて考えた、教育改革

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夏に中学の同窓会があり、田舎に帰省して出席した。僕の田舎は小さな町で、中学校はひとつしかない。出席したのは三分の一くらいだが、やはり幼なじみというのは良いもんである。
同窓会には先生も二人来てくださったのだが、学年担任でなかった先生もいらっしゃっていた。この先生は英語教師で野球部の監督もしていたが、僕らが中学のころには、ちょうど今の僕らくらいの年齢だったはずだ。
当時この先生は生活指導も兼ねており、非常に厳しいので有名だった。体罰の是非もクソもない素行不良の生徒へのビンタは日常茶飯事であり、野球部の監督としても鉄拳制裁を大盤振る舞いしていた。
しかし、当時からこの先生は生徒に大変慕われていた。子供の目から見ても、理不尽に暴力を振るっているわけではないことが理解できたからである。なぜ悪いのかをきちんと諭すし、その言説にはぶれがなかった。ダブルスタンダードではないのが子供にもわかった。
子供が「悪いことしてるのかも」と思いながらやったことを見咎められ、殴られる。強烈な痛みで「あぁ、やっぱりアレは悪いことだったんだな」と精神に刷り込まれる。かくいう僕もこの先生に殴られたことがあるが、痛いの痛くないの、いまだにあのビンタ以上の痛さは味わっていない。殴られた理由は良く覚えていないが、当時も今も、理不尽に暴力を受けたという記憶はない。
同窓会でのスピーチで、この先生は僕らが卒業していったあとのことを話された。先生は自分の信念に従って体罰の手を緩めることはなかったこと、そしてそれゆえに無理解な親や教師仲間とも軋轢を生んだこと、そしてそれゆえに、教師の出世コースとはまったく無関係で、さっさと定年退職をしたと。生徒を殴って親に感謝されたのは、僕らの年齢あたりが最後だったとスピーチをしめくくられた。
同窓会の宴席では、この先生の周りを秀才と野球部と不良たちが取り囲み、いつまでも談笑が絶えなかったことは言うまでもない。
さて、安倍総理が第一義に掲げる教育改革、果たしてうまくいくのか。まずは教育者の教育に取り掛かってもらいたいものだ。僕は大学では教職課程を選択しなかった。中学校理科の資格は取れたのだが、自分には教師など勤まらないと、大学時代から早々に体感していたためだ。あの先生のように厳しくやさしく子供を指導するなど、到底無理だと思っていた。第一、体罰なしに子供を指導できるなどと考えていなかったから、体罰は厳重に戒められていた教育現場に身を投じるなど、夢にも思わなかったのだ。
昔読みかじったフロイトの精神分析学で、自我・イド・超自我という考え方を知った。自我はいわゆる意識として捉えられるもので、イドは無意識の原始的な欲求や感情、衝動。そして超自我は自我とイドを広い意味での道徳性をもって律するものである。つまりは、「頭の中に天使と悪魔がいて、論争をしている」という、漫画などでしばしば用いられる表現をあらわしているわけだ。
意識の中の超自我は、つねに抑圧するものとして存在する。よって超自我は父親や宗教など、無条件に高位にあるものによって象徴される。精神的にも物理的にも、「こいつにゃかなわない」という存在が自分の中になければ、リミッターとしての超自我は機能しない。
言いたいことはお分かりだろう。最近の教育が、「のびのび」だの「個性」だの「子供の権利」だのお題目を唱えてきた結果がこれだ。自由と野放図を履き違えたガキどもの拡大再生産。彼らの心の中には、リミッターがないのだ。超自我を形成すべき時期に、抑圧を知らずに成長してしまったわけだ。
外側にはじける力と、外側から抑えつける力。この両者のバランスこそが肝要なのは自明だ。はじける力だけが強いのを、「個性がある」だの「自分らしく生きている」だのと賛美するのはもうやめるべきだ。キリスト教徒やイスラームの人々には、最後の防波堤として「神がお許しにならない」という観念がある。一神教の厳格さがない日本の場合、これに代わる防波堤は、「お天道様が許さない」だった。この場合お天道様というのは天という概念ではあるが、感覚としては「世間様が許さない」というもの近いのではないか。「世間」というのは人間関係をウェブのごとくリンクして構成された実体のない共同体であると考えるが、日本ではつねにこの実体のない装置で、良くも悪くも個人の行動や思想を律してきた。この装置が消失しかかっている今、もう一度世間の目というものを作っていきたいもんだ。
いじめ問題なんかには特効薬だと思うのだが、「世間様がゆるさねぇ」ってのは。


↑ガキを殴れ、殴るつらさは知ってるが、殴れ
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この記事のコメント

お初に書き込みいたします。

仰るとおり、戦後日本は「世間」を排除・解体する方向で進んできたように思います。「世間体なんか何だ!個人の自由だ!」というのも確かに一理あるのですが、今の日本はそれが度が過ぎてしまったようです。

個人を優先するばかり、世間(または「公」と言っても良い)に対する配慮を欠き、そして世間も個人の逸脱を咎める力を失いつつあります。これは宗教のような精神的バックボーンを持たない日本社会にとって由々しき事態です。

ただ、新たなる「世間」として一つの可能性があるとすれば、それはネットの「祭り」なのかなと。ブログ炎上のメカニズムの解説としてよく取り上げられる「ブログで自滅する人々」の中で「2ちゃんねらーとはつまるところ「世間」を指す」と述べられています。

http://arena.nikkeibp.co.jp/coltop/20051101/114106/

戦後の自由と民主主義によって解体されたはずの「世間」はネットの上に時空間的に巨大になって復活したのか?・・・これが私の興味のあるところです。
2006-12-02 Sat 22:15 | URL | かせっち #mQop/nM.[ 内容変更]
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