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じーちゃん

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同時代に生きていた人間で「この人のようになりたい」と思ったのは、祖父だ。これまで生きてきて残念ながら尊敬に値する教師もいなかったし、まぁ会社の上司にちょっと尊敬できる人間がいる程度。歴史上の人物を尊敬するのもなかなか覚悟がいるし。司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んで坂本竜馬を尊敬してしまうのも、ねぇ。ガキの頃そう公言してたけどさ。
祖父というのは母方の祖父のことなのだが、母の里の地名を取って「そーのづのじーちゃん」と呼んでいた。「そーのづ」というのは漢字で書くと「塩ノ渕」という地名。「しおのふち」と読むわけだが、どう訛ったら「そーのづ」になるのか。
しおのふち、
しょーのふち、
しょーのふつ、
そーのふづ、

そーのづ。
あ、なった。

じーちゃんは、とある農家の次男坊で生まれた。明治の終わりごろだ。長じて職業軍人の道を歩み、支那大陸へ派遣され、家族とともに満州で終戦を迎え、捕虜となってシベリア抑留を経験、終戦から3年経ってようやく帰国した。無論ばーちゃんと僕の母、叔父の3人が死ぬ思いで満州から日本へ戻ってきたことは言うまでもない。
抑留を解かれ、体ひとつでようやく帰国したじーちゃんに住む家などあるわけもない。それでもなんとかばーちゃんの実家近くに小さな商店を開かせてもらったという。帰国してからまた一人子供が生まれ、商売は少しずつ上向く。僕の両親は見合結婚だったらしいが、きっかけは仕入問屋の関係だったとか。僕の家も商店だったんで。
とにかく両親がめでたく結婚し僕がこの世に生まれ、僕はじーちゃんに出会った。大体においてじーちゃんばーちゃんというのは、孫を甘やかすために存在するようなものだから、初の男の子の孫だった僕はとにかく可愛がられた。可愛がってくれるからじーちゃんのことは大好きになる。母方のじーちゃんなので盆と正月くらいしか一緒にいられないが、夏の暑い日に、仕入にいくスーパーカブの荷台でしがみついたじーちゃんの背中は、とても大きくてたくましかった。
僕が中学くらいの時、じーちゃんが満州時代のことを話してくれた。その頃の僕は、学校での教育のおかげで結構な反戦君だった。じーちゃんに対して、満州で悪いことをしたのかと聞いた。じーちゃんは、毅然と言い放った。

「じーちゃんは、悪いことは一切していない!悪いのは支那とソ連のほうだ!」

普段やさしいじーちゃんの眼が、軍人の眼に変わったことをよく記憶している。命を懸けて死線を走り回った武人としてのじーちゃんだった。
じーちゃんはその後も当時のことをかいつまんで話してくれたが、軍隊での上司のことも一切悪く言わなかった。毎年のように旧軍の集いに出かけていたし。ムロン、昭和天皇陛下への批判めいたことなど、まったくなかった。じーちゃんの家には、難しい漢文で書かれたなんかの賞状が額に入れてあった。菊のご紋のもの。シベリア抑留でも思想改造は受けなかったらしく、最後の最後まで徹底した反共だったのは言うまでもない。
僕はそれ以来、歴史の教師の言うことを信用しなくなった。じーちゃんが悪いわけない、じーちゃんが自分を盾にして守ろうとした日本が悪いわけないと。
12年前、じーちゃんは死んだ。風邪をこじらせて肺炎になり、入院して2日で旅立った。おそろしく潔い最期だった。
じーちゃんの悲報に接した僕は、田舎へ取って返す。じーちゃんは、布団の上で冷たくなっていた。だが、ものすごく安らかな顔をしていた。
自分でも信じられないくらい大量の涙が両目から流れ出し、もはや嗚咽は抑えられなかった。声を上げて泣くなど、幼児の頃以来だった。それ以来、僕は一切涙を流してはいない。
誇り高き日本の漢として、じーちゃんは僕の理想の漢であり続ける。
これまでも、これからも。
(旧ブログより移植)


↑じーちゃんとばーちゃんの墓参りに行かなきゃ
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