市川電蔵事務所

ヘンだと思ったらちゃんと抗議する、そんなアタリマエのことができるようになろうと。

スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。
別窓 | スポンサー広告
∧top | under∨

せいちゃん

a0009400_1545348.jpg
↑これが仙臺四郎
小学校低学年の頃の同級生に、「せいちゃん」という子がいた。もう40年近く前のことだし、記憶もさだかではない。
せいちゃんは、今思えばいわゆる小児マヒで、脚が不自由だった。
ど田舎で40年近く前、せいちゃんは「かわいそうかもしれんけど普通の子」だった。一学年で子供は70人ばかりしかいない田舎、町の大人どもはどのガキが誰の子供で誰の孫か、誰がアニキで誰が妹か知ってる。せいちゃんは、脚が不自由な、牛乳屋の息子だった。
せいちゃんは普通の小学生がやる遊びをやり、いつもついてこれなかった。運動神経がほぼゼロの私すら、せいちゃんと遊ぶときには軽く気を使ったほどだ。せいちゃんはフツーに運動会に出て、フツーにかけっこがビリだった。誰もせいちゃんを特別に扱いはしなかった。
だって、せいちゃんは脚が悪いけど、同じ町で一緒に育った同級生だし。
せいちゃんの脚が悪いのはせいちゃんが悪いわけではないし。
せいちゃんの足が悪いのは、同級生きってのバカ・リョーイチが勉強ができないってのと同じレベルでアタリマエで、私の運動神経がかなり鈍い、ってのよりはまだマシな程度という認識。
今思えば、せいちゃんは普通学級に置いたらいかん障害だったのだ。ど田舎・昔というファクターで、彼のレベルでも普通の児童と一緒に遊んでた。ホントに障害を持つ人にはシャレにならないんだろうけど、ある程度一緒にもみ合ったほうがいいんでないかと。仙臺四郎は、面と向かって馬鹿呼ばわりされたそうだが。
障害のある子供も、それを受け入れて一緒に育ってく状況って必要なんじゃないの。私らがそうやって育ってきたように。差別的な意味ではなく、「人間はみんな同じではない」ってことを知るべきです。
そうそう、障害者ではない系統でヤバイガキもいたわ。親が無能で人間らしい生活させてもらえない姉弟。あの一家だけは本気で差別されてたと思う。
なお、せいちゃんは小学校高学年になって地元の小学校から養護学校に移った。以降の消息は不明。
ヤバイ姉妹も、同じ町の中学には行かなかった。以降の消息は、のちに知った。イヤな結末だったので忘れたい。
スポンサーサイト
別窓 | 忘れえぬ人々 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

じーちゃん その2

story_img_4.jpg
多くの人は、じーちゃんとばーちゃんが二人ずついることだろう。いわゆる、父方母方ってやつだわな。
昔のエントリでも取り上げたが、僕が一番尊敬する人間には、もう永年名誉顧問みたいな位置に母方の祖父がいる。元陸軍軍人で、満州にいた関係上大東亜戦争後にソヴィエト連邦に抑留された。生きて帰って来れたために僕も生まれたわけだが、16年前に亡くなった。最期まで、髪は白かったがフサフサだった。
いっぽう、父方の祖父とは、生まれてからずっと同居してたわけだ。田舎のことだし、僕の家は最盛期には両親・姉二人・祖父母・親父の弟二人それに僕と、合計九人家族だったこともある。田舎のアタリマエとして、僕のような末っ子は祖父母が育てるのと同義だった。
同居してた父方の祖父ってのは、僕が小学校に上がる前の年の秋に死んだ。実は、あまり記憶に残ってないんである。最も記憶に残ってるのは、祖父が死んだ夜のことだけだ。イナカの40年前、ヒトはイエで息を引き取るのが普通だった。祖父は風邪をこじらせて寝付き、一週間かそこらで死んだと記憶してる。享年72歳だったそうだ。
末っ子の長男だった僕は、祖父にことのほか可愛がられたそうだ。田舎の魚屋の隠居じじいは、昼間から酒をくらって、徒歩5分のところにある国鉄の駅で背負った孫に蒸気機関車を見せていたんだそうだ。父方の祖父は母方の祖父よりもだいぶ年を食っていたため、徴兵にもあわず田舎で過ごした。戦中において(昭和12~20年)、僕のオヤジの弟4人をばーさんに産ませたんだから、あるイミバカヤロウかもしれん(笑)。
いまや実家の仏壇の写真でしか拝めない祖父、頭はほぼスキンヘッドである。僕の記憶の中でも、耳の上あたりに短い髪の毛が残ってたもののほぼハゲだった。明るいうちから酒を喰らい、キセルでタバコをふかすじいちゃん。僕も最近だいぶ年を喰ってきたが、どうもあんたらじいさま達に顔つきが似てきたような。髪はまだだいぶあるんで、母方のほうかな。顔つきは父方の大酒飲みに似てきたかな。あなたがたに恥ずかしくないような生き方を、残りの人生でやっていきます。
別窓 | 忘れえぬ人々 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

トミさん

moblog_669501f1.jpg
トミさんと初めて逢ったのは、僕がこの街にやって来て出入りし始めたスナックだった。
トミさんは僕より10歳くらい年上で、業界は違うものの同じ営業マンということで意気投合し、行きつけの店で逢うたびに楽しく語りあった。お互いの会社はすぐ近くなのだが、行きつけの店以外では逢わなかった。
トミさんは背が高く、痩せ型で涼しげな目鼻立ちをした格好いい先輩だった。僕より10歳くらい年上で若いうちからコンピュータをいじってたといい、そんなに大きくないトミさんの会社のLAN環境を一人で構築してしまったという伝説もある。
若いうちから営業部長的ポジションにいたトミさんは、日本全国を飛び回っていたようだ。決して女性に嫌悪感を抱かせるタイプの男ではないはずだが、長いこと独身だった。行きつけのスナックの、何代目かのバイトの女の子と入籍したと聞いたのが数年前だ。
トミさんは、2010年4月3日朝、肺ガンで永眠した。
今日、通夜に参列する。現役の会社員だったトミさん、参列者はすごい多かった。でも、トミさんの本名もうろ覚えな飲み友達の僕らのことも、彼はきっと笑って受け入れてくれただろう。
電蔵はまだ、も少し生きていきますよ、トミさん。だけど、すげえ悲しいです。さようなら、トミさん。
トミさんのトミって姓のアタマの字ってことはわかってたけど、あんなに変わった漢字のトミだったんだね(泣笑)

別窓 | 忘れえぬ人々 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

Kせんせい

200506_img_16.jpg
↑このドラマはリアルタイムで泣きました。
「恩師」という言葉があるが、残念ながら僕にはそれに相当する存在はない。「印象に残った教師」が多少いるだけである。
僕はもう40を過ぎて、子供が中学に通い僕自身がPTAの役員をするくらいなのだが、僕が中学の頃の教師はかなりアツかった。
K先生は僕の一学年上の担任教師で、英語担当の野球部監督だった。僕が中学生の頃にはたぶん僕の今の年齢より若く、30代だったろう。いわゆる、「暴力教師」だった。野球部の監督ということもあり、部員への鉄拳制裁は当たり前。実際どうだったかはわからないが、今で言う生活指導教諭だったのか、一般生徒への鉄拳制裁も当たり前で、校内で恐れられた教師だった。
僕の世代は「金八先生」の初期の頃で、トーホグの田舎でも中学生の「非行」と「校内暴力」が問題となってた頃。僕が通う中学は最も田舎に属してたためまだましだったが、隣の「市」の中学は、首都圏の中学に近い状況にもなっていた。
中学生の頃の僕は、その頃の言葉でいう「ツッパリ」に憧れながらも決してそこまでいけない、お勉強は多少できるという非常にイヤな立ち位置のガキだった。丸刈り(当時の中学男子は丸刈りが校則でした)が少し伸びたようなアタマにポマードを塗りたくってリーゼント風にして喜んでいたんですよw。K先生は、こういったガキに、「どうあがいてもかなわない存在がある」ということを刷り込むために存在していたんですな。
僕の自宅は中学校から歩いて2分のところにあって、けっこうタマリ場になっていた。ある時、昼休みに僕の自宅に友人一緒に行って、また戻ったところをK先生に見咎められた。両親は共稼ぎで平日昼間は祖母が家にいるだけ、その祖母もまた当時から非常に体が丈夫で日中は家になどいないし、田舎のこととて施錠しない(これは当時マジで日中は家に鍵をかけたおぼえがない)ので、喫煙とかするわけではないにせよ、昼休みに「電蔵の部屋で休もう」ってのは普通だったんだよね。
そうやって昼休み明けまた校門をくぐった僕と友人を、K先生が発見したわけだ。「校則では終業時間まで校外に出てはいけないことになっているがどうしたのか」との問いに、僕らは半分ふてくされて「学校の近くの電蔵の家に行ってました」と答えた。
タイムラグなく、ビンタが飛んできた。
野球部の監督をやるくらいなのでバリバリのスポーツマンだし、ビンタ慣れしてるのでえらく掌が厚い。チンコに毛が生えかけた程度のガキにはションベンちびりそうな痛さのビンタだった。実際口の中を切ったんだが。おおらかな時代だったんだろう。午後の授業も顔半分腫らして受け、家に帰る。
夕飯を食うにも、先生のビンタで口の中を切ってるので食物が沁みる。飯を食う速度も下がる。当時の僕に対しては、育ち盛りで馬鹿みたいにメシ食ってる印象を持ってた父親が、どうしたと尋ねる。僕は馬鹿正直にこういうことで先生に殴られたと答える。
「おまえが悪いわ馬鹿が 先生が殴るのは当然だわこの馬鹿」
こう言って親父はまた僕を殴った。おかげで飯が食いにくくなる期間が1週間延びたような気がする。
一昨年、中学の同窓会があるというので参加した。僕の担任のS先生と、特別ゲストとして件のK先生もおいでになった。担任だったS先生はその後教師としてのエリートコースを歩み、どっかの校長先生をお勤めになったそうだ。
K先生は、学区の中学を渡るうち、ホンキで「暴力教師」のレッテルを貼られてしまい、さきのS先生と正反対で「教師」としては非遇な終わりだったと言っていた。教師が生徒を殴ることを、親が是と思い生徒も是と思う時代は僕たちの世代が最後だったと述懐した。
だが、K先生は「自分がやってきたことは決して間違ってはいなかった」と言った。事実、その同窓会のとき、のちに校長を務めたS先生と最後まで暴力教師だったK先生、そのまわりで酒を酌み交わすもと生徒の数は、圧倒的にK先生のほうが多かったのである。その周囲を決して離れなかったのは、当時最もK先生に反発していた、僕らのような腐れガキどもだったことは言うまでもない。
ホンキでガキを叱れる大人になったのか、未だ自信のない僕である。
別窓 | 忘れえぬ人々 | コメント:2 | トラックバック:0
∧top | under∨

たぐちさん

1_Img1.jpg

生まれてはじめてまともに酒を飲んだのは、確か高校2年の夏だった。部のOBの飲み会に参加させられ、ビールを大瓶で2本ほど飲んだ。暑い日だったので、美味いと思った。夕方、学生服のままJRで酔っぱらって帰った。駅のトイレで吐いた。帰宅したら両親が苦笑していた。親父は「大」がつく酒飲みなのでむしろ喜んでいた。僕の実家は、高校生のころから酒と煙草は家でやるぶんには黙認だったんだな。煙草は受験勉強しながら喫ってたくらいだが、さすがに酒はあまり飲まなかった。
その後、日常的に酒を飲むようになったのは大学二年の秋、実家を出て学生寮に入寮した時からだと記憶している。この寮は学内では「アル中養成所」と言われるくらいのところで、何かというと宴会をしていた。
大学時代を過ごしたのは東北地方の地方都市だったが、ただでさえ酒飲みの多い土地柄に加えて飲み屋の料金も安かったので、ほぼ毎夜寮か飲み屋かで酒を飲んでいた。何しろ国に支払う寄宿料、つまり部屋代は月間150円、寮の自治会で炊婦さんを雇用して、飯は平日昼と夜が食えた。光熱費は寮生で頭割りで、風呂は1日おき。とにかく当時20年ほど前で月3万円あれば何とか餓えずに生きていけた。まぁ、炊婦さんが一所懸命安くておいしい献立を作ってくれて、タダみたいな給与で働いてくれたからなんだけどね。
その頃は苦学してるやつなんかはもうほとんどいなかった。学生寮は汚い・古い・人間関係がイヤ、という理由で敬遠されていたが、基本生活費が安いので、相場よりかなり安い僕んちの仕送りとバイトで豪勢に暮らると判断し、入寮を決めたのだ。バイトも飲食店や観光ホテルなど飯を食わせてくれるところばかり選んだし、食に縁のないバイトでも雇い主が自宅で夕食や風呂を振舞ってくれたりもした。布団と着替えだけ持って入寮したのに、出るときにはステレオはじめAV機器フルセット、数十枚のCDと中古車まで持っていたのだから、いい暮らしだわな。小遣いは今よりは多かったんじゃないか…?
それで、22年前のちょうど今頃の入寮当時、隣の部屋には4年生のたぐちさんという先輩が住んでいた。4年生の後期、もう卒論もメドがつき就職も決まっていたたぐちさんは、新入りの僕をとにかく酒に誘ってくれた。あるときは自分の部屋、あるときは私の部屋、あるときはスナック…。
ハタチそこそこの若造にとって、「スナック」というところは初体験だった。薄暗い照明の中、おねぇちゃんがサントリーオールド(当時はまだ高級品だった)の水割りを作ってくれる。たぐちさんは大柄でがっちりしていたが色白のハンサムな人で、この店のママとできていたというが、僕に酒を教えてくれた人として、思い出の先輩だった。就職先も隣の県の地方上級公務員とが内定、成績優秀だった。たぐちさんには順風満帆の生活が見えていたのだ。
しかしたぐちさんは就職後数年して精神を患い、思い出のこの学生寮の敷地の片隅へやってきて、ひっそりと首を吊った。
僕がたぐちさんの最期を知ったのは、彼が逝ってからまた数年たったころ、同じ寮に暮らしていた友人との電話だった。理由は今もわからないし、わかろうとも思わなかった。ただ、たぐちさんは最期の場所として、数十人の気の合う仲間と暮らした思い出の場所を選んだのだろう。僕のことを思い出してくれただろうかと少し気になったが。大学を卒業して就職、赴任地が関東に決まって一人暮らしを始めたその頃から、僕の飲酒は日常的になり、今の今まで続いていた。
ただね。今日、病院に行きまして。二年連続して健康診断で黄色信号を出されてたので、さすがに検査しました。高脂血症と貧血でアウト。高脂血症は酒の飲みすぎとラーメンの食いすぎw 貧血は男性ではあまり考えられないので、胃腸からの出血の疑いとか。おかげさまで何年かぶりに、向こうしばらくシラフで床に付くことになりそうです。
色白で涼やかなたぐちさんの横顔が、「デンゾー、そこまで生きたんだから、もう少し生きろよ」って笑ってくれたような気がした。
今一度、たぐちさんのために、合掌です。


↑なんかしみじみした夜です
別窓 | 忘れえぬ人々 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

じーちゃん

0000235308_img.jpeg

同時代に生きていた人間で「この人のようになりたい」と思ったのは、祖父だ。これまで生きてきて残念ながら尊敬に値する教師もいなかったし、まぁ会社の上司にちょっと尊敬できる人間がいる程度。歴史上の人物を尊敬するのもなかなか覚悟がいるし。司馬遼太郎の「竜馬が行く」を読んで坂本竜馬を尊敬してしまうのも、ねぇ。ガキの頃そう公言してたけどさ。
祖父というのは母方の祖父のことなのだが、母の里の地名を取って「そーのづのじーちゃん」と呼んでいた。「そーのづ」というのは漢字で書くと「塩ノ渕」という地名。「しおのふち」と読むわけだが、どう訛ったら「そーのづ」になるのか。
しおのふち、
しょーのふち、
しょーのふつ、
そーのふづ、

そーのづ。
あ、なった。

じーちゃんは、とある農家の次男坊で生まれた。明治の終わりごろだ。長じて職業軍人の道を歩み、支那大陸へ派遣され、家族とともに満州で終戦を迎え、捕虜となってシベリア抑留を経験、終戦から3年経ってようやく帰国した。無論ばーちゃんと僕の母、叔父の3人が死ぬ思いで満州から日本へ戻ってきたことは言うまでもない。
抑留を解かれ、体ひとつでようやく帰国したじーちゃんに住む家などあるわけもない。それでもなんとかばーちゃんの実家近くに小さな商店を開かせてもらったという。帰国してからまた一人子供が生まれ、商売は少しずつ上向く。僕の両親は見合結婚だったらしいが、きっかけは仕入問屋の関係だったとか。僕の家も商店だったんで。
とにかく両親がめでたく結婚し僕がこの世に生まれ、僕はじーちゃんに出会った。大体においてじーちゃんばーちゃんというのは、孫を甘やかすために存在するようなものだから、初の男の子の孫だった僕はとにかく可愛がられた。可愛がってくれるからじーちゃんのことは大好きになる。母方のじーちゃんなので盆と正月くらいしか一緒にいられないが、夏の暑い日に、仕入にいくスーパーカブの荷台でしがみついたじーちゃんの背中は、とても大きくてたくましかった。
僕が中学くらいの時、じーちゃんが満州時代のことを話してくれた。その頃の僕は、学校での教育のおかげで結構な反戦君だった。じーちゃんに対して、満州で悪いことをしたのかと聞いた。じーちゃんは、毅然と言い放った。

「じーちゃんは、悪いことは一切していない!悪いのは支那とソ連のほうだ!」

普段やさしいじーちゃんの眼が、軍人の眼に変わったことをよく記憶している。命を懸けて死線を走り回った武人としてのじーちゃんだった。
じーちゃんはその後も当時のことをかいつまんで話してくれたが、軍隊での上司のことも一切悪く言わなかった。毎年のように旧軍の集いに出かけていたし。ムロン、昭和天皇陛下への批判めいたことなど、まったくなかった。じーちゃんの家には、難しい漢文で書かれたなんかの賞状が額に入れてあった。菊のご紋のもの。シベリア抑留でも思想改造は受けなかったらしく、最後の最後まで徹底した反共だったのは言うまでもない。
僕はそれ以来、歴史の教師の言うことを信用しなくなった。じーちゃんが悪いわけない、じーちゃんが自分を盾にして守ろうとした日本が悪いわけないと。
12年前、じーちゃんは死んだ。風邪をこじらせて肺炎になり、入院して2日で旅立った。おそろしく潔い最期だった。
じーちゃんの悲報に接した僕は、田舎へ取って返す。じーちゃんは、布団の上で冷たくなっていた。だが、ものすごく安らかな顔をしていた。
自分でも信じられないくらい大量の涙が両目から流れ出し、もはや嗚咽は抑えられなかった。声を上げて泣くなど、幼児の頃以来だった。それ以来、僕は一切涙を流してはいない。
誇り高き日本の漢として、じーちゃんは僕の理想の漢であり続ける。
これまでも、これからも。
(旧ブログより移植)


↑じーちゃんとばーちゃんの墓参りに行かなきゃ
別窓 | 忘れえぬ人々 | コメント:0 | トラックバック:0
∧top | under∨

しょうしさん

0000218576_img.jpg

僕は20年ほど前に、実家を出て学生寮に入寮した。東北の日本海側にある街の、国立大学の学生寮だ。当時、国に納めた寄宿料は月150円!この学生寮はこのとき築20年ほどで僕と同い年の寮だが、多分最初からこの値段だったのだろう。
20年前、世は阪神タイガースが優勝しバブルの階段を上がり始めた頃。それまで学生寮に住んでいた「苦学生(向学心はたっぷりとあるが金がまったくない学生さんのこと)」という種族はほぼいなくなっていた。この頃学生寮に住む連中というのは
「実家が貧乏で仕送りが少ない」
「バイトで稼いだ金を趣味にすべて投入したい」←僕はこれだった
「実家から勘当されている」
「気まずいところに借金があり、家賃を削っても返済しなければならない」
「モルモン教徒である」
「ホモである」
というようなやつらだった。
そういう訳で、この寮に住む者たちはとにかく個性的だった。居室は50ばかり、二人部屋の設計だったが、入寮するものがいないためカンゼンに個室で、僕が住んでいる頃の寮生は40名前後だった。
こうしたクセのある連中のうち、その一人が2回先輩の「しょうしさん」だった。痩せ型で長髪、メガネをかけていた。そう、髪型もメガネもちょうど、大木凡人がすっきりと痩せたような感じ。ただしメガネは薄くブラウンの入ったヤツ。
しょうしさんは色が白くて顔も小さく、はっきり言ってヤサ男。実家は田舎の素封家らしく、仕送りは潤沢にあるため、小汚いなりをしている者が多い学生寮では、いつもこざっぱりとした安物でない服ばかり着ていたのでよけい目立った。寮の風呂は週3回だったため、銭湯へ毎日通っていたようだ。頭もよく酒も強い、かっこいい先輩だった。
そんなしょうしさんが、ある日珍しく寮の風呂へ入ってきた。その裸を見て、僕はドキッとした。
痩せてはいるが、ものすごい筋肉。
ブルース・リーそのままの大胸筋。
えらい段差のついた腹筋。
細いウェストと太い上腕。
風呂から上がって、他の先輩にしょうしさんのことを尋ねた。
「そうかオマエ、知らないよな、まだ。しょうしはな、あんな風(ヤサ男)だけど、極真空手の有段者なんだ。3年くらい前にな、真夜中に街でヤンキー5人にからまれたけど、あっという間に全員叩きのめして、その5人歩道に正座させて1時間以上説教たれたんだぞ。あんまり喧嘩で空手使うから破門されたらしい」
なんつう人だ。
しょうしさんは、「赤旗」を購読していた。学生寮の部屋の前まで宅配させていた。20年前とはいえ、学生運動など残り火もなくなっていた時代。僕は尋ねた。
「しょうしさん、何で赤旗なんすか。共産党に入ってるんですか」
しょうしさんはにやっと笑って答えた。
「敵を知るためだ(かなりの秋田なまりで)
しょうしさんのお父さんは、秋田県のある町の町長なんだそうだ。東北の田舎といったら、ほとんど例外なく自由民主党が牛耳る保守王国。しょうしさんも無論自民党支持だったはず。それなのにあえて赤旗を読み、マルクス経済学ひとスジの教授に師事して学問をしていたのだ。
えらい人や。
|しょうしさんはその後公務員になったと聞く。いつか、あの町の町長選挙に立候補するのだろうか。ちなみに大木凡人も、ああ見えてえらく喧嘩が強いと聞いたことがある。
(旧ブログより移植)


↑しょうしさん、お元気ですか?
別窓 | 忘れえぬ人々 | コメント:3 | トラックバック:0
∧top | under∨
| 市川電蔵事務所 |
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。